さて、これらの背景のもとに、いよいよ宇佐神宮が表に出てくる。これは、すでに述べたとおり、養老律令の発布に向けて、寺社が租の除外になることを落としどころに、着々と体制を整える過程だととらえられる。まず、神亀2年(725)に八幡神が小椋山へ遷座し、天平3年(731)正月官幣に預かる。これは、大神田麻呂の奏上(東大寺要録)によるもので、異国討伐の神徳に報いる(託宣集)ためとされる。官幣に預かることで、神祇官により公式に認められたということを意味し、それは第二殿に比咩神を祀る託宣が出たことと同期しているといえよう。この年はまた、中央の政治が動いた年でもある。その2年前の神亀6年2月に長屋王の変が起こり、翌3月に藤原武智麻呂が大納言となった。そしてこの年には、7月に大納言で隼人征伐の大将軍だった大伴旅人が没し、その9月に武智麻呂が大宰帥を兼任することになった。つまり、旅人から武智麻呂に権力が移行する中で、九州に重心を移す動きがあったといえる。ただ、この官幣の記事は続日本紀には見当たらず、事実かどうかは疑わしい。なぜなら、続日本紀における八幡の記事の初見は天平9年(737)の新羅無礼の記事だからだ。その記事は、四月乙巳朔「使いを伊勢神宮、大神社、筑紫の住吉・八幡の二社と香椎宮とに遣して、幣(みてぐら)を奉りて新羅の礼无き状を告さしむ」となっている。ここで注目したいのは、豊国ではなく筑紫の住吉・八幡の二社という記述。もちろん筑紫が九州全体を指している可能性はあるが、実は筑紫には宇佐神宮(なお、この時点では、二社という記述がある通り、少なくとも神宮ではなく神社であったことは指摘できよう)にも劣らず由緒正しい篠崎八幡神社というのが北九州の小椋ではないとはいえ小倉の鷹尾山のふもとに鎮座している。これは、神功皇后が三韓討伐から凱旋したとき、鷹尾山から穴門を臨んだ故事にちなんで、敏達天皇12年(584)に勅命によって仲哀天皇、神功皇后、応神天皇を祀ったことから始まるとされている。
ここで、仲哀天皇についてみてみたい。いくつかの風土記に興味深い記事が残っている。越前国風土記では、八幡は応神天皇の垂迹で、気比明神は仲哀天皇の鎮座で、気比と宇佐は同体である、とする。さらに、摂津国風土記でも、「仲哀天皇は気比の大明神で、その后神功皇后は三韓を攻めて筑紫へ帰り、皇子を産んだ。これが誉田の天皇則ち応神天皇である。皇后は摂津広田の郷にいたり、広田明神となった。誉田の天皇が今の八幡の大神である。」として、気比とのつながりが示されている。(説話世界の八幡の神)つまり、仲哀天皇は越の国とのつながりが考えられる人物であり、越の国と九州をまたにかけて活躍した人物といえば、これも時期的な検討は必要だが、阿倍比羅夫という存在が浮かび上がる。阿倍比羅夫は斉明天皇の時代に粛慎を討ち、その後白村江の戦いに参加したことで知られている。つまり白村江の戦いとは、仲哀天皇こと阿倍比羅夫が不慮の死を遂げたことで敗戦となったという可能性が浮上する。そしてまた、秋田県には阿倍比羅夫とのつながりを起源とした八幡社が複数存在している。ここに、応神、雄略(あるいは武内宿禰)についで、八幡神に当たる天皇として、仲哀天皇の可能性も出てきたことになる。これが以前阿倍氏について記事を1本書いた理由だが、まだ完全には消化し切れていないので、引き続き考えてゆきたい。