三人目の阿倍御主人は、そのままの名前で日本書記に登場する。阿倍氏は孝元天皇の皇子大毘古命(大彦命)とその息子建沼河別命(武渟川別)の後裔とされる。ここでもまた東海地方と関わりがあり、武渟川別は日本書紀の中で四道将軍の一人として東海地方に遣わされたことになっている。古事記では建沼河別命は東方12道に遣わされたことになっており、これも古事記が三遠地方の記録だとすれば、三遠から東方に遣わされたことを意味し、畿内視点で書かれた日本書紀では東海地方へ遣わされたと解釈することができる。阿倍氏についてはかなり多く書くことがあるので、また後ほどまとめて書くことにする。御主人は火鼠の皮衣をとってくるよう言われ、唐の商人から購入したが、それが偽物で、かぐや姫に燃やされてしまった。皮衣というのは僧衣または僧のことであり、また火鼠ということで、遠州には火の神様である秋葉権現の総本山である秋葉神社がある。その秋葉権現の真言は「オン ヒラヒラ ケン ヒラケンノウ ソワ」で、阿倍比羅夫に通じるようなヒラの音が繰り返し出てくる。阿の字はサンスクリットの字音の最初であり、仏教で万有発生の根元であるとされる。これらのことから、阿倍比羅夫が仏教と火に絡んだ何らかの文化を持ち込み、それを伝えつつ三遠地方から信州を抜けて北陸に抜けた(この辺りも後からまとめて説明したい)ということが御主人のひと世代ふた世代前くらいにあり、それを受けて同族の御主人がその伝統を継ぐ僧を連れてくるように言われた、というようなことがあったのでは、と想像できる。秋葉神社の創建はまさに続日本紀の初め、文武・元明期であるとされており、時期的にはぴったり符号する。「あへなし」の語源になったというのは、その僧に会えなかった、ということがかかっているのではないかと思う。
四人目の大伴御行の話は先に書いたので中身については省略するが、奇妙なのは、彼のところだけ和歌が載っていない、ということがある。大伴氏というのは、のちに家持が万葉集の編纂に大きく関わるなど、和歌には造詣が深いはずである。そこで、その後の石上麻呂足の後日譚のような形で出てくる和歌に注目したい。「かひはなく 有りける物を わびはてて 死ぬる命を すくひやはせぬ」という歌で、かひに甲斐と船を漕ぐ櫂、そしてさらには茶を掬う茶杓の櫂先がかかっているというかなり知的な歌であり、船を漕ぐ櫂がかかっていることから、これが御行の歌であった可能性が高いのでは、と考えられる。これは、茶の湯の侘びの語源になったかもしれない重要な歌である可能性もありそう。「あなたへがた」の語源というのも、とってくるよう言われたものが竜の首の珠であるのに、それとは全く関係ない、目が李のようになったと言う表現の李が食べられない、と言うのは、あまりに内容からかけ離れすぎていて、不自然にすぎる。
最後の石上麻呂足については、不比等のライバル的存在として他の三人よりもかなり長生きしている。話の内容的にも、一番好意的に書かれているということで、竹取物語の著者は麻呂足に近い存在だったのではないかと考えられる。だから、大伴御行の美談であるような歌を麻呂足のものだということにして、しかも子安貝をとってきたことにして「かひなし」の語源も持って行く、というようなことになったのではないかと考えられる。つまり、史実的には麻呂足が何らかの形で文武天皇の后選びに関わったということはなかったのだろうと考えられる。