僕はある時期まで村上春樹のことを「我が人生最大のライバル」と呼んでいた。それは、僕が小説を書いて『群像』新人賞に応募した時に、僕を蹴落として受賞したのが彼だったからだ。
などと書くと、まるで僕の作品と『風の歌を聴け』が最終選考まで争ったみたいに聞こえるが、実際のところ僕のほうは箸にも棒にも引っかからず、1次選考であえなく落選したのだった。
だから、もちろん「わが人生最大のライバル」というのもジョークでありネタでしかない。
しかし、それにしても、『群像』新人賞に応募した際には、「ひょっとしたら獲れるのではないか」という思いがあった。いや、書き終えてみて「見事に書ききったぞ!」という思いがあったかと言うとそういうのは全くなく、むしろ「なんでこの程度しか書けないのだろう」という思いだったのに、何故かそれでも「ひょっとしたら自分が獲るかも」と思っている自分がいた。
人間というものは経験が少なければ少ないほど、妙な(と言うか理不尽な)自信を持つ傾向がある。
例えば、僕が現役で大学受験をした時、問題については「できなかった」という明確な実感がありながら、合否については「ひょっとして通っているのではないか」という理不尽な自信があった(が、やっぱり落ちていた)。
翌年、一浪で再度受験した際には「去年よりはマシにしても、やはりできなかった」という実感があり、親友に「合格発表を一緒に見に行こう」と誘われたが「ひとりで見たい」と断った(ら、合格していた)。そんなものである。
僕が『群像』新人賞を逃した時も、落ちてなお「なんで俺のが落ちて、そんな村上とかいう奴が受賞するのだろう」と根拠もなく不満だった。
それでそれまで一度も買ったことがなかった『群像』を買って『風の歌を聴け』を読んでみた。
「負けた」と思った(いやいや、いつまで一騎討ちみたいな気分でいるのか…)。
「やられた」と思った(誰に何を「やられた」のか意味不明だが…)。
ただ、そのころの村上春樹はまだ「小道具の使い方の巧さが目立つ」程度の作家という見られ方をしていたのではないだろうか。
──初めてセックスをした時に2人の下に敷いていた朝日新聞とか、ジェイズ・バーの床に敷き詰めた落花生の殻とか。挙げ始めればいくらでも言える。
村上春樹が突然大メジャーになったのは、3作目の『羊をめぐる冒険』からだ。何しろ人生最大のライバルだから、当然僕は『風の歌を聴け』『1973年のピンボール』を経て、『羊をめぐる冒険』まで一気に読み進んで、ますます「やられた」感を募らせていた(笑)
話は逸れてしまうが、僕にとって『羊をめぐる冒険』はサザン・オールスターズの『いとしのエリー』と同じ位置づけになる。
僕はサザン・オールスターズをデビュー曲の『勝手にシンドバッド』から大変高く評価していた。しかし、桑田佳祐のキャラクターもあってか、世間はどちらかというと“イロモノ”的な扱いをしていたように思う。
そのためか1978年のレコード大賞新人賞の選考会では、決選投票で渋谷哲平に敗れた。渋谷哲平を憶えている人はどれくらいいるだろうか?
そのことに憤慨した僕は、当時定期購読していた『新譜ジャーナル』誌に「レコード大賞に想う」という一稿を投じている(これが僕の人生初投稿であり、原稿料5000円をもらった)。
2曲目はデビュー曲と同工異曲の『気分しだいで責めないで』だったが、3曲目に『いとしのエリー』が来た。
この曲を初めてラジオで聴き終わった瞬間、僕は叫んでいた。「見てみろ!やっぱり本物やったやないか!」
村上春樹の2作目『1973年のピンボール』はある種『風の歌を聴け』の同工異曲と言っても良いのではないか。3作目の『羊をめぐる冒険』を読んで、僕は同様に叫んだのだった。
あとはあまり詳しく書かない。あまりに大きな作家になってしまったから。とにかく長編は全部読んでいる。短編も大体読んでいる。
僕にとっては作家としての村上春樹のみならず、翻訳家であり米国文学の紹介者という意味での彼の影響も非常に大きい。
レイモンド・カーヴァーやジョン・アーヴィング、W・P・キンセラ、ティム・オブライエンなどの存在を教えてくれたのも、F・スコット・フィッツジェラルドやカート・ヴォネガット・ジュニアを読むきっかけを与えてくれたのも、全て村上春樹だった。
もう今では彼は僕のライバルではない。僕は彼のファンになった。
ところでもしあの時、僕が村上春樹を押しのけて『群像』新人賞を獲得していたら、僕はサザン・オールスターズに対する渋谷哲平と同じ末路を辿っていたのかもしれない。
いや、別に渋谷哲平に悪意はないが、随分と DEEP な話になってしまった(笑)