表の記事ではラグジュアリー商品の作り方について、万歩計を例に挙げてお話ししました。
ここでは少々補足や解説等を(ちと嫌な言い方で)書いておこうと思います。
私はラグジュアリーの商品を「本質的な価値があるもの」と書いていましたが。
身も蓋もない別の言い方をすると、以下のように表現することもできます。
……って、サムネイルでバレバレですやん。
この場合の「虎」や「人(=他人)」に該当するのが「哲学」「歴史」「文化」「自然」です。
しかしここで気付かれた方もおられるかもしれませんが、ラグジュアリーのすべての商品にこれらの諺が当てはまるわけではありません。
これまでも例に挙げていたシャネルのスーツで言いますと、当てはまらないものが以下です。
●ココ・シャネル自身がデザインしたシャネルのスーツ
今現在、何着残っているのかはわかりませんが。
ココ・シャネルが亡くなってからできたシャネルのスーツはすべて、ココ・シャネルの哲学という虎の威を借りて作られたものです。
亡くなられてからの方が長いですし、スーツはこれからも生産され続けますので、虎の威を借りて作られる方が大多数となりますね。
そしてこの、虎の威を借りない場合のラグジュアリーは難しい、とも言えます。
前回の表の記事で、万歩計でラグジュアリー商品を作成した場合を考えていましたが。
あの商品は2000万円の価格を付けていましたが、もしも「高すぎる」と面と向かって言う人がいたとしましょう。
この場合はその人に対して、以下のように反論することができます。
「この万歩計は日本が誇る偉大な人物、伊能忠敬に敬意を表して生み出されたもの」
「伊能忠敬が作成した日本地図はそのあまりの正確さ故に、日本の植民地化を阻止できた一因である」
「そんな偉大な人物である伊能忠敬と伊能忠敬に対して我々が表している敬意からして、2000万円という価格は妥当であり、決して高すぎるものではない」
「むしろ安くするのは、伊能忠敬に失礼ではないか」
というわけで、これまた身も蓋もない言い方をさせて頂くと「これを高すぎると言うとは、何という○国民」という反論ができる状態であるわけです。
逆に虎の威を借りないラグジュアリーはこのような方法が使えませんので、かなり難しいと言わざるを得ないのです。
(実際の話、先ほどのシャネルのスーツで言えば、ココ・シャネル自らがデザインした初代のスーツは、欧州では全然売れなかったそうです)
というわけで、今回私が言いたかったのは「日本は惜しい」ということでした。
日本ではそこら中にラグジュアリーの素になるものが溢れかえっているのに、それらを上手く使う術を知りません。
それどころか、そういうことを試みた人に対しては「ぼったくり」と言って叩いたり、あるいは見る目のある外国人にそれらを利用されたり(ホテルの例で言えばこの記事もどうぞ)とか。
最後に私がまだ二十代だった頃、イーデス・ハンソンさんが仰っていた以下のお言葉を。
「芸術は良いものです。良いものにお金がかかるのは当たり前」
逆に言えば「良いものは元々お金がかかるもので、お金がかからない良いものはむしろ人々の評価の方が誤っている」ということもあるのではないでしょうか?
(それが全部というわけでもありません。
極端なのは、いずれにせよ良くないのではないかと)