やっぱり、例のイベントには参加できませんでした。
あの日書いていたように既にやばい状況でしたが、夫が早く寝たらいけるかも……と、思い気合を入れて祈っていたのですけれども。
(しかし蒼炎の崇拝者が手に入ったので、次回以降参加できます。その点は一歩前進です。良かった良かった。お力を頂きましてありがとうございました)。
で、日記というか泣き言というか、まぁ、いつもの駄文です。
ここではかなーり、えらそーなことを書いて、吠えまくっている私ですが。
リアルな私はといえば、しょぼい上に弱っちぃーのです。
まず、夫には頭が上がりません。
夫婦喧嘩になれば、ほぼ私が惨敗します。
現時点で専業主婦という名のひきこもり……というよりも、ナマケモノです。
そりゃ、惨敗するよねー惨敗して当たり前よねーという立場です。
いや、例えば喧嘩の際に夫から「誰のおかげで飯が食えていると思っとんねん!」て言われたら、私は小躍りして大喜びするわけですけれども。
「あっ、これはモラハラというヤツやないか?!」
そう思って、また同じこと言う機会を待って録音しようとするでしょう。
しかし実際のところ夫は一切、そういうことは言いません。
その代わりに言うのが以下です。
「お前は、地に足がついていない」
「お前は、勤労の義務を果たしていない」
これ言われると、私は非常にあ痛たたた(>_<)なわけです。
何と言うてもやはり、身に覚えがありまくりですからねー。
やっぱ「勤労の義務」って、国民の三大義務である『教育(教育を受けさせる)の義務』『勤労の義務』『納税の義務』の一つですから。
勤労の義務をもうちょっと詳しく言えば、以下です。
『日本国憲法 第27条 第1項「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」』
まぁ、そんなわけで。
「お前は、国民の義務を果たしていない」
と言われると、あ痛たたた(>_<)なわけです。
しかし、しかしです。
私は言いたいのです。
今、現在は国民の義務を「勤労(=一所懸命に働く)」に限定することは、誤りではないかと。
そもそも何故勤労しなければならないのかと言いますと、それが「生産活動」だからなんですよね。
しかし、しかしです。
私は言いたいのです。
せっかく勤労によって商品を製造しても、その商品がその時その場のお客さん全員に「もう持っているから要らない」と言われたら、その商品はもはや商品ではなくゴミであり、生産活動ではなくなるわけです。
昔の日本国憲法が制定された1945年は戦後まもなくであり、日本は「勤労=生産活動」と言えるような焼け野原状態でした。
あるいはそれ以前の時代もずっと「勤労=生産活動」と言っても差し支えのない状態だったでしょう。
でも、でもね、今は違うじゃないですかと。
確かに私は今現在、仕事してません。
ちょっと前まではコロナ禍が酷かったもんだから、派遣のエントリーで「お断りメール」をたくさん頂いておりました。
(その理由は「応募者多数につき」となっていましたが、ホンマか?)
それでこういうコロナ禍みたいな状況になると、余計に思うわけです。
「働く必要がない上に能力もないという人は、働かないことが世のため人のため」なのではないかと。
特に仕事が激減している時は、本当に仕事を必要とする人に迷惑です。
それでこういう時に手当以外でよく言われるのが「失業対策って大事だよね」という話で。
よく言われるのが「失業対策としては、穴を掘ってその穴を埋める作業をさせても効果がある(から、それを失業者にやってもらえば良い)」という話ですけど。
これを納税者の立場で考えると「ちょー待って!」と言いたくなります。
失業対策をするなら、その先に利益となって帰ってくるもの(=投資的なもの)にするべきではないのかと。
例えばプログラマーのような、明らかにこれからも必要な人材の養成をして頂けたなら、働く人にとっても納税者にとってもありがたいやないですかと。
とはいえプログラマーのような仕事は向いていない人には向いていないですから、だから「誰にでもできる穴を掘って埋める作業」みたいなんになってしまう、という事情もあるわけですけれども。
だからこそ、客側のスキルを上げるための各個人の勉強に充てよう、ってのが私の主張だったりします。
つまり「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」わけだから、失業した時に国民の権利行使で「穴を掘って元に戻す意味のない仕事に就くのは国民の権利だー」っていうのは、もはや時代に合わないのではないかと。
さらに納税者が「投資に値しない分損をする税金の使い方は無駄遣いであり、けしからん!」と言う権利がないのは、何故なんだーと。
そういうことを思ったわけです。
それはさておき、話を戻しますと。
日本が貧乏になっているのは、勤労勤労また勤労で「能動的に働くプレイヤーのみ評価する一方、受動的なお客さんの能力を評価しない」という「プレイヤー至上主義」が行き過ぎているからなんですよ。
だからお客さん側の能力を鍛えねばならないわけですから、そのために労働から離れるのは良いのではないかと。
ちなみに私は労働から離れている間は投資によって(お金を日本の企業さんに投じることで)、つまりは「お金で生産活動に参加」しているわけですが。
最近はまだましですが、この方法ですら以前は「額に汗して働かないとはけしからん!」という人がいっぱいおったわけですよ。
というわけで、勤労の何が大事なのかと言いますと「勤労によって、生産活動をする(→その商品を評価したお客さんから対価としてお金もらう=お金を稼ぐ)」ことが大事なのであり、実は「勤労」そのものではありません。
「勤労(=労働)」とは手段であり、目的ではないのです。
というわけで、ここで私は「日本人は手段の目的化が起こりやすく、それを象徴するものが勤労の義務である」だから、早くそれを是正すべきだと言いたいのです。
でないと、でないとですね。
いつまで経っても、私は夫に喧嘩で勝つことができないのですよっ!
……いや、知らんがな。
(ちなみにこの話は、以前にも書いたことがありました。
ご興味ある方は、こちらもどうぞよろしくお願い致します)