今回は以下の記事の追記的な話です。
先日、私はスーパーで大量の肉と野菜を買って、冷蔵庫に入れようとしました。
肉を入れようとチルド室を開けると、既にいっぱいで入れるところがありません。
仕方がないのでとりあえず野菜室へ、野菜と一緒くたにして入れました。
しかしそのことをすっかり忘れてしまった私は、肉を腐らせて使うことができませんでした。
……ということがあったとしてですね(いや、あったけど)。
結局、使うことのできなかったこの肉は、存在(=ある)していたのでしょうか?
正確に言うと「存在はしていたけれども、その認識ができていなかった」ということになりますよね。
つまり「肉は、ないも同然の状態だった」と言えます。
で、この状態を力強く「ない」と言い切る人もいます。
それは誰かと言いますと、主に哲学者さんでしょうね。
これをカントのコペルニクス的転回で言えば「ない」ということになりますので。
(カントやコペルニクス的転回について、もっと深く知りたい方はKTAG様の以下の記事をどうぞ。
カントの功績はコペルニクス的転回だけではありませんので、是非)
何故、カントのコペルニクス的転回で言えば「ない」ということになるのか?
何故なら、上記で言えば「対象は認識によって決定する」からです。
つまり「肉という対象が存在する(=ある)のは、私が(野菜室に保存したから存在するという)認識をすることで決定する」からです……って、ややこしいですね。
話は変わりますが、以前ひろゆき氏が「教養のない人はいない、何故ならば生活していれば、何らかの人生を楽しくする教養を得ているはずだから」と仰っていました。
それ自体は仰る通りだと私も思います。
その人の人生を楽しくするものはリュクスであり、人生を楽しむことは他の生物にはない、人だけが持つ素晴らしいものです。
しかし、このリュクスの認識のある人となりますと、どうでしょうか?
さらに、自らの教養はこれだという認識のある人となりますと、どうでしょうか?
私はこれらの認識のある人は、かなり少ないのではないかと疑っています。
(リュクスという単語は知らなくてもOKだけど、それでも少ないと思います)
何故なら、自らの持つ教養にその認識があれば「他者も自分と同じように、何らかの教養を持っている」ということがわかっているはずだからです。
その状態であれば、常識とは違う考えを持っているというだけで(人道上で問題のある場合を除く)、SNS等で他者を叩くようなことをするでしょうか?
ということでもしも、国民の大半がこの状態であったなら、日本は相当やばいと私は思っています。
日本で自殺者が多いのは、上記の理由も含まれているでしょう。
そして国が「滅びたも同然」とは、どういうことかと言いますと。
日本という国そのものは存在します。
でも、政治家や大企業の経営者や富裕層に超富裕層など、国の上の方の人々は皆、外国人です。
そして、日本人は下層に行けば行くほど多くなります。
さらに、日本人は既に人口の割合ではマイノリティになっています。
何故、そのようになるのか?
上層部が外国人だらけで下層に日本人が多くなるのは、元の上にいた日本人が皆「(妬み等でSNSで叩かれることにより)日本は住みにくい」と思って、日本から出て行ってしまうとか。
(この原因は「プレイヤー至上主義」であると、以前に書いていましたが。
この記事のリンク先の記事では以下のように書かれていました。
大阪大学社会経済研究所を中心とした研究グループによると、被験者に集団で公共財を作るゲームをしてもらったところ、日本人はアメリカ人や中国人と比較して他人の足を引っ張る行動が多いという結果が得られた。
ご興味ある方は以下の元記事もどうぞ。
アメリカ人や中国人は、日本人ほど自分自身を供給側かつ労働者という立場で物事を見ていない、というのが私の意見です)
で、人口の割合でマイノリティになる原因は、少子化が止まらないからですね。
何故、少子化が止まらないのかと言えば、先に挙げた自殺者が多いことで将来を悲観している人が多いことが伺えます(そんな人は子供を持とうとしないでしょう)。
それ以外の人でも収入が増えないために子供が持てないどころか、結婚や恋愛すらも難しい、という状態になるからです。
私の杞憂であれば良いのですが。