前回の投稿でデング熱の経験について書きました。
デング熱から回復した後も体調不良が半年ほど続いたのですが、原因がわからずかなり弱っていました。
そんな時近所に住んでいる知り合いが、あることを教えてくれました。
彼はジャライ族ではないのですが、やはりラタナキリ地域に住んでいるクルン族という少数民族です。
クルン族もジャライ族と同じように、精霊信仰の民族で生贄の儀式や魔術などを行なっています。
彼はクルン族の村から離れて街に生活しています。
そんな彼が私の住んでいる家にやってきたことがあるのですが、部屋に飾ってあった苔石をどこで手に入れたのか聞いてきました。
それは直径20cmくらいの溶岩の塊で、苔が一面に生えていてシダのような植物が石から生えているというとても風情のある石です。
その半年ほど前に、ラタナキリにあるかつて火山地帯だったという土地に遊びに行った時に見つけて拾ってきたものでした。
そのことを彼に話すと、”それがお前の体調不良の原因だ!” と断言するのです。
どうやらその火山地帯という場所はクルン族の聖地にあたる場所で、そこにあるものはたとえ小さな石であっても持ち出すのは禁止なのだそうです。もしその土地のものを持ち帰ると、土地の精霊が大いに怒るのだそうです。
最初は半信半疑だったのですが、確かに自分がその苔石を持ってきたのはデング熱にかかる数日前だった気がします。
なんだか気持ちが悪いので、その石を元の場所に返すことにしました。
しかし彼はそれだけでは不十分だと言いました。精霊の怒りを鎮めるには、生贄の儀式が必要だというのです。そして今回のケースは石の大きさと当時の私の体調を考えると、鶏を生贄にすれば十分だというのです。
彼があまりにも真剣に生贄の必要性を説くので、ついに根負けして生贄の儀式をすることになってしまいました。
鶏を生贄にした後、食用にするというので罪悪感がすこし軽減されたのだと思います。
早速翌日、彼に言われた通りに街の市場で生きた鶏を購入して、それをその聖地の近くにあるクルン族の村へと持って行きました。
そしてその村の女性シャーマンにあって、事の経緯を説明して、儀式をお願いしました。
そのシャーマンはイメージとは全く違って、キティちゃん柄のパジャマのような服を着ていました。 なんだか時代の変化を感じます😅
ですがここで問題が発生しました。彼女は、精霊の怒りを鎮めるには鶏ではなくて豚を生贄に捧げる必要があると言うのです。
ですが豚を生贄にするのは、鶏よりもさらに罪悪感が大きいし心理的抵抗がありました。そこで彼女にお願いして、精霊と交渉してもらって豚を鶏に値切ってもらったのです。
(前回も書きましたが、クルン族にとってもジャライ族と同様家畜は通貨であり、その経済圏には精霊まで含まれている特殊な世界です)
どうやら精霊は交渉を受け入れてくれたようで、鶏を生贄に捧げれば苔石を持ち帰ったことを許してくれて、体の調子も戻してくれることになりました。
豚や牛などの生贄の場合は村人総出の大きな規模になるのですが、今回のケースは鶏ということで関係者のみで行われることになりました。
どうやら外国人にこの儀式を執行するのは初めてとのことです。
まずシャーマンと一緒に苔石を拾った場所へと向かいました。
そして枯れ木を集めて焚き火を炊きます。
そして鶏を絞めます(普通の食用の時の同じ締め方で安心しました)。
体を開いて内臓むきだしにして、竹の棒にさします。
心臓だけは分離して竹のすぐ横に刺します。
(自分の中の罪悪感を収めるために、この時はずーっとただバーベキューに儀式のおまけがついたものだと自分に言い聞かせていました)
それを焚き火にくべてバーベキューにします。
その後苔石をもとにあった場所に戻して、そこに焼き鳥とお米を持っていって、シャーマンが苔石に怪しい液体をかけました。
そして精霊に許しを請うために苔石を持ち帰ったことを謝ったあと、シャーマンが謎の呪文を唱えます。
そのあと、例によって壷酒が登場し、ここでもシャーマンが呪文を唱えます。
彼女のきている服と呪文のアンバランスさのおかげで、だいぶ緊張がほぐれます。
そして、手首に細い紐を巻いてくれました。これは最低3日はとってはいけないそうです。
そのあとは、みんなで焼き鳥と壷酒の宴会が始まります。
以上が儀式の成り行きでした。
不思議なことにその後体調が良くなりました。
これは本当に儀式の効果で精霊が許してくれたのか、あるいはプラシーボ効果のように心理的なものなのかはわかりません。
いずれにしても身をもって彼らの生活スタイルを経験することは、当時の自分にとって大きな意味がありました。
当時のカンボジアでは、ジャライ族やクルン族のような少数民族を野蛮人だということで差別する風潮が残っていました。
ですが彼ら少数民族は本当に人懐っこい人たちです。
表面だけを見て彼らに野蛮人というレッテルを貼る一部のカンボジア人の方に、現代人の野蛮性を感じることもありました。
ですが彼らの生活に触れてみると、カンボジア人(クメール人)、ジャライ族、日本人、未開人、文明人といった区別や、どちらが野蛮人かなどというジャッジは全くどうでもいい気になりました。
相手が誰であろうとただ心を開いて通じ合う、それだけで心は暖かくなります。
今回の場合のシャーマンも、儀式が終わって宴会をしているときはただの人懐っこいおばちゃんでした。
のちに出会った魔術師もただのおっちゃんでした。
自分を飾ったり、よくみせようと頑張らなくても、ただそのままの自分でうけ入れられて、心地よく時間を共有できる空間がありました。
そんなところが自分がジャライ族に惹かれる理由なのだと思います。
これまでジャライ族について紹介した記事です🐱