※夏目漱石の小説は全く関係ありません
私の名前は「生」という。だから自殺はしない。だが心は簡単に死ぬ。前回「他者から提示される正解を疑うこと、言葉の力は信じても言葉しか使わない人は信じないこと、といった社会生活の知恵がなければ、とっくにボロボロになっていた」などと書いたがこれは自分にも向けられていて、私は平気な顔をしてる私を信じていない。
生きるということは、本当はボロボロになることである。自分をさらけ出して感じ続けることだからである。好きなものや人を信じて裏切られることだからである。本当に生きていれば、死にたくなるのも当然なのだと思う。ボロボロになること、裏切りや暴力を肯定しているのではない。「刺さる」という言葉が肯定的にも使われているように、芸術に触れた時の感動は、心を動かす力に晒された結果である。
発想は混沌から生まれるものであり、表現の発端では既存の倫理は鑑みられない。批評されて初めて気付く間違いもある。表現に対するポリティカル・コレクトネスという尺度は必要だしとてもよいと思う。だが批判を恐れて表現自体をしないことは、本末転倒である。まずは表に出して反応を受け、間違っていると思えば見直したらいいのだと思う。
人が感動するのは、本当に生きるためだ。その衝撃をくれるのは、いつも間違う不完全な自分をさらけ出して生きてみせる姿である。私が以前舞台に立てたのも、演出家に「その目つきの悪さがイイ」と言われたからである。傷が即ち私なのであった。
「どうしようもなくこうなんだよ」という気持ち。外を観察して考え直すことはあっても、やっぱり変えられないこだわり、いつも同じようにそう感じてしまう心、自分を誤魔化す嘘は全て排除して、理由を徹底的に考えた上でも変わらないのであれば、それはどうしようもなく今の私なのである。それが人として間違っていると思われることであっても、否定するにも肯定するにも表に出すしかないのだと思う。
出した結果、自分がクズでしかないと知ったとしても、表に出した勇気や正直さだけは認められる。少なくとも私は、正直であるだけで感動し得る。どうしようもなく今こだわっている姿が自然だからである。クズとして清々しく生きていけばよいのだし、変えたいと思ったら変わればよい。正直な今の自分を表に出すことで変わることもできるが、隠していたらクズのままだ。そんな自分が好き、というならそれでもいいが、変わらないでいることに必ず飽きることは、経験上知っている。
心を守る為に何も感動しない状態を続けていると、心が死ぬ。さらけ出すと傷付くが心は動き出す。この世界で本当に生きるというのは厳しい。喜びや喜びゆえの切なさを感じている時は最高である。最高を求めつつネガティブな衝撃にはやられないよう守る必要もある。だが経験してきた分の心の耐性は付いているはずであり、少なくとも傷付いている時に「傷ついているなあ、生きているなあ」と感じられる程度の客観性とマゾ性はある。とりあえず今の自分の正解を信じたいと思う。というか信じずにはこの先、生きられないと思う。