私は偶々そうだったことしか知らない。この歳まで自分に起きたり目にしてきたこと全て、根本原因まで遡ると偶々だとしか言えないのだと思う。だから日頃は因果が辿れるところまで仮止めで理解し、考える根拠にする。生きている内は出来るだけ沢山のことを知りたいと思うが、殆どのことは根本まで考えられたことがないし、それが私だけの偏った見方でないか検討が要る上に、毎瞬毎瞬新たな出来事が起こってくるから、私は殆どのことをわかっていない。
先日も友人たちと話していて驚くことがあった。褒められるために他者に働きかける人がいるというのだ。考えたこともなかったので、一瞬頭が空っぽになった。具体的には、ある若い役者が芝居の稽古終わりに、先輩の役者である私の友人に「褒められたくて」話を聞いてくださいと近づき、自分は(役者として)どうですか?と訊いてくることがあるというのだ。友人が直接そう聞いた訳ではないが「褒められたくて」話しかけてきたと思ったという。
自分のしたことや作品を褒められるのは基本的には嬉しいことだろうが、嬉しいからといって褒められようとする気持ちが理解できないのは、自慰を他者に手伝わせるような恥ずかしさがあると思うからだ。他者を利用して気持ちよくなるという点では、自慢話の類のように思われる。また他者に褒められても、褒めた人の価値観や考え方を確認した結果全然嬉しくない、ということもあるだろう。価値観のすり合わせは慎重に行うべき疲れる行為だし、ただ存在をちやほやされたい人間と思われる恥ずかしさには耐えられない。私は自尊心が高いということなのだろうか。
そもそも私には、他者に何かされたいという気持ちが少ない。理由は2つあって、ひとつは自分の意思で生きていられるだけで十分に幸せなので必要ないからだ。もうひとつは他者の頭の中や感じていることを、自分のことのようには知覚できない以上、他者に自分のことなどわかるわけがないと思っていたからだ。先の友人たちと話していた時には妻も一緒にいたのだが、彼女いわく「褒められたい」人は沢山いるということだった。それは子供の頃から見受けられ、そういう人は「自分が言ってほしいことが顔に書いてある」ので、言ってやらなかったとのことである。
自我が芽生えてからの私の最大の興味は、この自我のようなものが他者の中にもあるのだろうかということだった。何故自分は他者じゃないのか、なんでこれ(自分の自我)なのかと思っていた。無駄に社交的だったというのもあり、学校ではできるだけ全員と話すようにして違いを見つけては喜んでいた。ちょっとサイコパスっぽい気もする。結論としては他者の中にも自我があるらしいということで、その作りが皆違っていることを知った。興味の方向は違っている理由に向き、長じてからは専ら環境にあると思うようになった。
自分が観察した他者が「他者の自我において何を望んでいるのか」という問いに興味が向かわなかったのは、自分を知ろうとするだけで精一杯だったからかもしれない。また、他者に何かしてもらいたい気持ちがなかったから「何を考えてるのかわからない」と親や友達に言われてきたのかもしれない。なるほど、と妙に自分一人だけ得心がいく話であった。
役者というのは作られた人格になり生きて見せるものなので、他者の自我の動き自体に意識を向けてきた人の方が向いている。社会に生きている以上、演技は誰でも無意識にしているものだが、演じて見せる技術を持った人の多くは、褒められたくて仕方ないものかもしれない。褒められるべきという自負があるから、他者に褒められようとするのだ。私には褒められるべきという自負が全くない。それは先に書いたもうひとつの理由に関わってくるもので、それはまた別に書こうと思う。