今回の記事は、あまねくニャーちゃん様の以下の記事を拝読したのがきっかけです。
ニャーちゃん様、ありがとうございました。
この記事では歎異抄に触れていますが、歎異抄とは……と何か書こうと思ったら……仏教ウェブ講座さんの記事『歎異抄とは?本の内容をわかりやすく説明』が詳しい上にわかりやすいので、ご興味ある方はこちらの記事をどうぞ。
そしてこのニャーちゃんさんの記事を拝読し「日本は先進国の中でも自殺者が多く、若年層の死因第一位にもなっている」という深刻な問題に対する、一つの答えではないかなとも思いました(ニャーちゃんさんもコメント欄で自死について触れていましたが)。
nippon.com様の記事によると若い世代の「死因トップが自殺」はG7で日本だけだそうです。
というわけで、主に価値観から由来する自死の問題を解決するため、このドラクエ3の遊び人のような人が必要であると、私はニャーちゃんさんの記事で学びました。
今回の記事では、リンク先の記事の冒頭でニャーちゃんさんが述べていた、以下の問いについての考察を致します。
何故、ドラクエ3の「遊び人」が「悟りの書」を必要とせずレベル20になれば「賢者」に転職できるのか?
私の答えは「汎用的な答え(=悟り、哲学)を得たから」というものです。
この「汎用的な答え」とは、これを言い換えると「悟り」とすることもできますし、また「哲学」とすることもできるという、そういうものです。
もう少し詳しく言うと「遊び人は様々な遊びを経て、再現性の高い汎用的な理(ことわり)やスキルを抽出する」が、レベル20になると「その抽出した理やスキルを様々な難題に当てはめて、解決することのできる賢者に転職できるようになる」という話になります。
※(日本では「哲学」は役に立たないと思われがちですけど、今はGAFAMも哲学者を雇っているなど、これから重要となる学問の一つです。
この話にご興味ある方はこちらの記事もどうぞ)
で、何故それが「遊び」であり、他のものではないのか?
肉体を駆使して戦う、魔法で治療する、ではダメなのか?
その答えを、お釈迦様のお弟子さん達が教えてくれます。
お釈迦様のお弟子さん達は皆、悟りを開く(阿羅漢果を得る)ために修行を重ねるわけですけれども、ここで二人のお弟子さんを例に挙げます。
お釈迦様のお弟子さんの中で最も愚かと言われた、周利槃特(チューラパンタカ)。
逆に、最も博学である(=多聞第一)と言われた、阿難尊者(アーナンダ)。
意外なことに悟りを開いたのは周利槃特の方が早く、阿難尊者は釈迦の存命中に悟りを開くことができなかったそうです。
これは何故なのかと言いますと「周利槃特の愚かさが禍を転じて福と為し、阿難尊者の賢さが裏目に出た」という結果ではないかと私は解釈しています。
周利槃特はあまりに愚かだったので、お釈迦様のありがたいお話を理解することができません。
それを嘆き悲しみ弟子をやめようとする周利槃特に対して、お釈迦様は「自ら愚かだと知る者は愚かではない、自らを賢いと思い上がっている者こそ真の愚か者である」と言い、一本の箒を授けます。
(このイラストはダ鳥獣戯画様より頂きました)
周利槃特は「塵を払い、垢を除かん」と言いながらひたすら掃除を続けましたが、ある時「何度掃除を繰り返しても、落葉したり埃が積もったり子供がいたずらしたりでまた汚い状態になってしまうが、これは人の心も同じである(=常に心の塵を払い、心の垢を除かんとせねばならない)」という悟りを開きます。
(悟りの部分は所説あり、表現にも違いがあります)
で、片や阿難尊者は、お釈迦様の教えを聞いて悟りを開こうとするわけですが。
ここで両者には、大きな違いがありますよね。
周利槃特がしていることは掃除ですが、掃除が目的ではありません。
掃除を職業として、それでお金をもらって生活しているわけでもありません。
悟りを開くという目的のために掃除をしているわけですが、周利槃特はあまりにも愚かなために、そのことすらも忘れがちな状態でした。
対して阿難尊者がお釈迦様の教えを聞くのは、悟りを開くという目的のためです。
悟りを開くという目的のため、直接お釈迦様の教えを聞いているのですから、普通に考えると阿難尊者の方が悟りを開くのは早いだろうと思われます。
しかし阿難尊者は、お釈迦様の存命中には悟りを開くことができなかったのです。
そして逆に言えば、阿難尊者はお釈迦様の死後に悟りを開くことができましたが。
このことは、阿難尊者はお釈迦様の存命中「お釈迦様のありがたい話で早く悟りを開かなければ」という目的と考えに支配されることで、逆に悟りを開くことができなかった、ということを表しています。
で、ここでドラクエ3の「遊び人」に話を戻します。
「遊び人」以外の職業はすべて必要な目的があります。
剣などの物理で攻撃するか、魔法で攻撃するかまたは回復するか……など、どれも必要な目的を果たすためのスキルを持っている人ですよね。
しかし「遊び人」はそうではありません。
「遊び人」の目的は遊ぶことであり、つまり楽しい時間を過ごすことです。
(こう言っちゃ何ですが、有益な目的ではありません)
遊びにもいろいろあって、一人で楽しむものや複数の人で楽しむもの、紐や縄などの道具を使うもの使わないもの、いろいろあります。
さらにその遊びにはそれぞれにルールがあって、皆がそのルールを守って楽しむわけですが、遊びによってそのルールも違いますよね。
でも、目的は楽しい過ごすということで共通しています。
そのいろんな遊びを通して、いろんな人と遊ぶことで、いろんなことを学んでいき、最終的には「それらを汎用的なスキルに換えて賢者になる、これができるようになるのがレベル20」ということなのではないでしょうか。
さて、周利槃特は掃除で悟りを開くことができましたが、これがもしも我々日本人だったらどうでしょうか。
私は「悟りを開くことのできない人が大多数」だと思います。
掃除にあまりにも一所懸命になって、より効率良く美しくなる方法を発明し、誰よりも優秀な掃除夫としてその名を轟かせると。
そしてどこぞの大金持ちに厚遇でスカウトされて、非常に裕福な一生を終えました、めでたしめでたし……って、悟りはどこ行ったんやー……という。
これはこれで幸せな人生でしょうけど、今は掃除も機械が導入されていますし、これからはAI搭載のスマートロボットが登場するわけで、こういう類いの幸せはより得られにくい状況になっていくことが予想されます。
というわけで、長くなりましたが、最後にもう一つだけ。
周利槃特は天才バカボンに登場する「レレレのおじさん」のモデルである、という説があるそうです。
実用的な目的にのみ心と頭を奪われることなく、あるがままを受け入れ「これでいいのだ」と思う。
これでいいのだ。
故・赤塚不二夫氏の葬儀・告別式でのタモリさんの弔辞について書かれた、ニャーちゃんさんのこの記事を思い出しました。
この記事もおすすめです!!!
お時間のある方は是非!!!