無知の技法を美化するわけではないが、この事実に関しては一言述べておく必要があるだろうと考えている。
結局のところ、変わりたいといくら心で願っても自分で変えられるのは限りがある。自分では買えられない部分を気にするのは意味がない。何かの節目や切羽詰まってきたときなどは、どうしても何かしなければならないと感じることがあるが、それは別段おかしいことではない。しかし、過度に変わりたいと考えたり、その逆の状態に自分を持っていこうとするのは難がある。
そもそも、なぜそこへ行きたいと思ったのか、それは大体において重要な問いである可能性が高い。
人生を後悔するのは誰でもあるだろうが、不思議なことに恵まれているはずの人間でさえも何らかの悔いがある。しかし、その後悔は本当に悔いるべき対象なのだろうか?
ありとあらゆる情報が飛び交う現代において、何かを知っていることはより優位的に立ち回ることができるのだろうか?名門といわれる大学を出ているかいないかは、知識の差ではなく、環境の差の要因が大きい。
だれでも、自分の所得や生活水準から、社会的な地位や位置を知ろうとするが、実際なぜなのだろうか?
とある芸能人が凄い偉業を成し遂げてもそれはほめたたえる節があるのに、なぜあの芸能人になるとやきもきしてしまうのか?芸能人であるから同じではないことが不思議でもある。
毎日が同じだと思っているのは自分だけであり、他の人や動物はそうではないかもしれない。とある人にとっては昨日の続きかもしれないし、新しい冒険の夜明けかもしれない。戦争前夜の緊張を抱えているかもしれないし、ひたすらに変態行為に没頭しているかもしれない。
毎日が同じだと思っているのは自分だけで、世の中を広く見ると毎日がレボリューションである。このレボリューションはいろいろと文脈を含み、例えば、プロゲーマーが引退したとか、好きな芸能人が死んでしまったとか、新しいゲームの新作がおもしろかったとか、誰かにとっては本当にどうでもいいことだが、自分にとっては革命的なこと、これは毎日どこかで必ず起きているし、それによって誰しもが昨日と決別するはずである。
すなわち、毎日どこかに革命の種が落ちており、それに気づいてないだけであるということはないだろうか?
英語は難しいものとしてとらえられがちであり、実際やってみても簡単に覚えられるものではない。しかし、決して難しいものではなく、毎日聞いていればだんだん何を言っているかはわかってくる。とはいっても、TOEICの試験で何点取れるとか、受験勉強でいい点が取れないとか、そういう次元の話ではなく、何を言っているのかがわかり、面白いと思えるのか、という軸で見れば、難しい対象ではない。
何も毎日母国語をリスニングして状況判断しているわけではなく、テレビや動画などのメディアに音声、好きなタレントなどの情報入手手段として使っているだけであり、TOEICやIELTSによって英語ができないというのは何ともおかしく思える。しかし、それができることが英語ができる、という共通認識が強い場合、上記の理屈は間違っていることになるが。
個人的には悪いとは思っていない。それで何が起ころうと、世界征服は達成するに値する野望の一つだと考えている。